MUSE - Who
社会情勢の様々でHybeコンテンツを追う気力がなくなっていたものの、一度知ってしまうと感服して縋ってしまう。悲しいかな事務所が非人道的であるのと並行して、アーティスト・パクジミンは進歩し続ける世界のミューズである。そして今さら言うまでもなく、我々クィアにとって彼はアイコンなのである。
ヘテロロマンス色が強い音楽なのかと思い、いったん距離を置いた「Who」。見て聞いて知れば知るほどやっぱりどうしてもクィアで、あれこれ解釈を深めるのが非常に楽しく、ジミンさんの表現に感服するとともにありがとうの気持ちがある。クィアはクィアリーディングできる作品を真剣に受け止めたがる。昨日からずっと「Who」のことを考えている。
久しぶりの感想・考察ブログだ。ただし今回は新鮮なリアクションみたいなもので、メインは前作の「Like Crazy」の話だ。『MUSE』はまだ深くまでは読み込めていないので、初見のこの新鮮な感覚を忘れずにいたいがためだけに書き始めている。……
ジミンのセカンドソロアルバム『MUSE』は、タイトルやジャケットイメージのとおり舞台的でパフォーマンス的で、ジミンのカリスマ性やアーティストとして持つ華に重点を置いた輝かしい作品である。一方、前作『FACE』は、コロナ禍を経たジミンの精神的な苦痛、苦悩、孤独、葛藤、迷い、渇望などを中心に描いた、繊細でパーソナルな重々しい一作だ。『FACE』が泥のついた裸足だったのに対し『MUSE』は花の飾られたブーツを履いているような、そんな対比が見える。
そして『MUSE』は、かなりクィアな方向に振っていた『FACE』と比較すると、一見、直球に異性愛規範的で、ジミンもアンドロジナスな雰囲気というよりは特に男性的である。私はそこでまず一歩引いてしまって、「Like Crazy」が大好きだったせいもあって急に「she」「she」と連呼し出した恋愛ソングにオゥ…となってしまい、最初はよく追っていなかったのだけど(だってヘテロノーマティビティなものはお腹いっぱいなので!)、パフォーマンスディレクターやPdoggさんらのインタビュー記事を偶然読んだところ、『MUSE』のあの感じはどうやら意図的に作られており、タイトル曲「Who」はあえてジミンのマスキュリンな面を強調していると書いてあり、ひれ伏してしまった。
With the performance for the main track “Who,” we mainly focused on showcasing a more charismatic, masculine side of Jimin, which entirely contrasts from the performances for FACE.
つまり私が『FACE』のクィアな色に大興奮して「Like Crazy」を聞きながら嬉し泣きしていたのも、『MUSE』初見「Who」のゴテゴテヘテロみに若干引いていたのも、全て彼らの策のうちだったというわけです。パフォーマー・ジミンにとって性とは、芸術に昇華させるため自在に描くものであり、ある意味では表現の一種なのだろうと恐れ入った。
アルバム『MUSE』について、ナムジュンとの対談動画では、何かに夢中になってわくわくしてのめり込むような感情をしばらく持てずにいたから、その感情を異性に例えてラブソングにして歌い上げ、最後「Who」で「そんなようなときめく感情にいつまたなれるのだろう」と結んだ、と話していた。
タイトルの『MUSE』は、ジミンさんがジミンさん自身のミューズを探す、のような意味合いが込められているのではないだろうか。
ところで、前情報なしに「Who」のMVを歌詞つきで見たパートナーが、第一声「これってジミンさん自身の内面の話なのかな。今の立場と状況を踏まえた自分の中の女性性の曲?」と言っていて、私も似たことを考えていたので長々語り合ってしまった。上述したジミンさん自身が語る意思・意図はもちろん込められているものとしても、このように解釈することも可能であり、複雑に考え抜かれた作品であることは明確である。
他メンバーのソロ作品で、明らかな意図を持ってセクシーに見せている歌詞やダンスに触れていたから、こんなに強烈な恋の歌詞でこんなに人と触れ合う振り付けなのに全く性的ではない表現に仕上げていることにも、深くなるほどと思った。主題の違いだろうけれども、そうだとしても。
振り付け全般に関しても色々と思うところはあるが、今はまだただ、こんなに「she」と連呼しているのに最後の最後でジミンさんの両隣にいるのは男性であることに、いちクィアとしては感激さえ覚えるのである…。
この曲中で繰り返される「she」という単語は本当に不思議だ。それは本当に他人なのか、それはまず人なのか、それすら自由である。そもそも、『MUSE』内でここまでもずっと恋愛を歌ってきたはずなのに、この曲になって急に「she」が何度も何度も繰り返されることに私はまず引っかかったが、思えばそこから、この曲について考えてしまう時間が始まったのだ。
本人談「たくさん誤解してください」だそうです。承知しました。
FACE - Like Crazy
以前別所で書いた「Like Crazy」についての雑記を転記する。数年前の文章だし考察と言うには乱雑だが、せっかくなのでそのまま載せます。
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軽快でメロウなシンセポップ。大好きな曲。
ジミンはインタビューで「女性との接触が多いですが気にしないでね」的なことをジョークっぽく言っていたが、おそらく異性愛の描写だと受け取られる想像をしていたのだろう。まず言いたいのは、私はそのような解釈をしなかった(この表現でそれはできなかった)。
私はこれを「ジミンの中の男性性と女性性の話」と受け取っている。日本ではこのような解釈をしている意見はネット上では本当に少なかった。英語話者の方ではよく見かけたのだが。
実は私も最初、異性愛的な物語が描かれた曲だと身構えていた。冒頭の男女の会話がヘテロロマンス映画モチーフのものだったし、同名の映画からインスピレーションを受けたとジミン自身も言っていたから。しかし違ったようだ。少なくとも私はそう解釈した。
ではヘテロロマンスでないなら何なのか、曲やMVのみでなく、ダンスプラクティス動画も参照しながら見ていきたい。
MVは、心ここにあらずなジミンが部屋で腕を引かれてパーティーへ連れ出され、廊下やらトイレやらで散々迷った末に部屋に戻ってくる、というシンプルな展開の映像作品だ。
しかし、この四分もない映像の中に様々な表象が隠されているのは見てわかるとおりだ。ジミンは、性の解放や欲望を撮り続けたゲイの写真家ロバート・メイプルソープの写真が貼られたパンツを履いたり、
ゲイだったフィリップ・ジョンソンの建築を起用したり、クィアのダンサーと一緒に踊ったり、この曲の表現の中に多彩なセクシュアリティ描写を入れ込んでいる。
パーティーの喧騒のシーンでは、コロナ禍において広く流通したサーモグラフィの色合いで挟まる人々の姿に、女性同士のように見える姿で親しげに踊る様子がある。
私はこれはレズビアンを登場させてくれたのだと前のめりに受け取る。
そしてその直後、一人でスマホを持って佇む人の姿も写る。
個人的にはこれも嬉しかった。彼女(のように見える人)は無表情なので一見寂しそうにも見えなくもないから、孤独の表現とも取れるが、踊る友人、キスをする恋人、の中に「パートナーを持たない人」「性的な接触をしていない人」を描くことは、恋愛や性愛を抱かない存在の可視化にもなり得る。
多様なセクシュアリティを描いたNetflixの大人気ドラマ『ハートストッパー(イギリス)』には、主人公らの傍にはいるのにずーっと一人で本を読んでいるアイザックという人物が登場する。ゲイの親友がラグビーの王子とイチャイチャしていようと周囲がどんどんくっついていこうと、恋愛などお構いなしに一人の世界を楽しんでいる素敵なキャラクターだが、そのアイザックはアロマンティック/アセクシュアル・スペクトラムだとファンの間で解釈されている。
MVの話に戻る。
クラブで踊る人々の中、楽しそうに騒いでいたジミンはやがて一人の女性を見つけ、姿を探すような素振りをする。女性のほうもジミンを気にかけているのか、正面から向き合うと画面が急速に回転し、曲の一番が終わる。ここが二人のジミンの対峙である。
彼女は黒いレザーのジャケットを着ている。
MVの冒頭、ぼんやりしたジミンの手を引くのは黒いレザージャケットの腕だ。これが誰なのかという点は、「Set Me Free Pt.2」の黒い衣装のジミンとも取れるし、この「彼女」とも取れる。
二番Aメロに入ると、ジミンが鏡を見返して「鏡の中に映る僕 とめどなく狂っていく」と歌うシーンから、場所がトイレに移る。便器の形状から判断すると「男子トイレ」だが、ジミンが鏡の中に見ているのが女性の姿であることは明白で、というのもこの曲のダンスパフォーマンスの際、この箇所で行うミラーリングダンスのシーンでは、ジミンは「鏡の中の自分」を女性ダンサーに演じさせている。
[CHOREOGRAPHY] 지민 (Jimin) 'Like Crazy' Dance Practice - YouTube
MVでは、壁に「set mefree」の落書きが。
迷いの吐露と一緒に一度解体された男子トイレが、のちのシーンで元の形に戻る。
この曲のコレオを思い返すと、このパートの直前でジミンの腕を引いて引き止めているのは男性のダンサーだ。
ここ以外のシーンでは、ジミンの体に直接的に触れて、より内側、よりジミン側にいるのは常に女性ダンサーである。つまり、ジミンのよりインナーにあるものが女性性だとしても、ジミンを引き止めるもの、迷うジミンの中でいつも結局戻ってくるものは男性性である、ということではないか。ちなみに、曲の最後でも、最後までジミンの傍にいるのは男性ダンサーだ。女性ダンサーはさっさと画面外に去ってしまう。
冒頭の会話を思い出す。「全て消え去ってしまうのが怖い」と言っているのは男性の声であり、最後、「またひとりぼっちだ」とこぼすのも男性の声である。
自分の中に永遠に女性性と男性性をどちらも持っていたいと思う、または、自分の中に女性性を持ちたいと思うのが深層のジミンだとすると、そんなジミンを引き止めて目を覚まさせるのが男性性だ。この曲で言う”夢”が「二者が共存している状態」とすると、”現実”、つまり目が覚めたあとの世界は「女性性の存在が消えた(または消させられた)状態」か。韓国のフェミニズム書籍を読んでいると、兵役というシステムがいかに「Toxic masculinity(有害な男性性)」を温存・強化させているかがわかる。
しかし、女性性に対して「傍にいてほしい」と懇願しているのも男性性である。これはジミンの中に、社会的な男性性と個人的な男性性という二種類があるとも取れる。または男性性がそのような多層的な性格を持っている、とも。
MVに、男女のキスシーンの上に立つ・座るジミンのシーンがある。
ここは、ジミンの中での男性性と女性性の融合を意味している、と取っている。
ジミンの中で起こっている現象がそれかもしれないが、社会的な男性性がどうしても引き止めてくる、解放されたい、解放されたくない、鏡の中の自分は何者なのか、何なのか、FACEは?……自分に向き合う経験が呼び起こすとめどない思いが、泥になって溢れてきそうである。部屋中を汚して。
コロナ禍、入隊、様々な事情に置かれたジミンが自分に向き合って泥になり解放を願う、でも夢をまだ見ていたいとも思う、葛藤や不断を表現した一曲だ。
ちなみに、原曲の韓国語バージョンでは「鏡の中の僕 とめどなくおかしくなっていく」となっているところが、英語バージョンでは「All my reflections, I can't even recognize(自分の内面の全部を認識することさえできないんだ)」となっている。
歌詞の「I、me、僕」「you、君」「she、彼女」、すべてジミンではないだろうか。「月」もジミン自身の暗喩かなと思う。ダンスも、このような解釈を念頭に置いて見るとしっくりくるものがある。
next?
ジミンの最近のソロ曲は、全体がダブルミーニング、トリプルミーニング+αで、歌詞もそうだが振り付けもMVも衣装も諸々も、全部おそらく意図的にそう作られているので解釈が本当におもしろく、しかもジェンダーアイデンティティ・セクシュアルアイデンティティに関する内容も読み取れるから、いちクィアとしては嬉しく、勇気づけられる面もある。次回作も楽しみです。まずは「Who」以外の『MUSE』収録曲を聞かなくてはだけど…笑
ちなみにこれまでのホソクさんの作品に関する記事についても同様ですが、ここに書いている内容はあくまで私個人の解釈です。私の目を通して主観のフィルターにかかった内容なので、当然個人的な願望も混ざっていることでしょう。人の数だけ解釈がある。作品は作り手の元を離れたら受け手のもの。大切にします。
(しかし、人体を透過する表現で用いた視覚的表現が、ジミンさんの「Like Crazy」はサーモグラフィ、ホソクさんの「MORE」はX線によるものだったのがトトズ好きとしては非常に興味深いですね。かたや体温、かたや骨。余談)