j-hope「MORE」考察と感想

j-hope 'MORE' Official MV

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音楽と歌詞

ホソクさんがこれまで作品やインタビューなどの中でちょくちょく言及してきたご自身の中の欲望を全面に打ち出した歌詞を、彼の起点であるオールドスクールヒップホップ音楽に乗せてシャウトしているので、意外性より遥かに再認識ソングの印象。というのが第一印象。

曲の開始からオールドスクールヒップホップなテイストできていかにもホソクさんが踊っていそうなビートなのに、サビで突然ギターが入ってきてロック調に変化するの、最初聞いたとき驚いたし新鮮だった。

ホソクさんって、ポップでキャッチーな曲からこういうダークな雰囲気まで作り出せて創作物の幅が広い。
ラッパーだけどボーカリストとしても優秀なので幅も広がりやすい。
今回もシャウトやエッジボイスを効かせて鋭いサウンドに作り込んでいましたね…

「これまで見せてこなかった姿を見せたい」とは話していたけれど、今のところ(「MORE」公開時)、個人的にはホソクさんを再認識してさらなる進化を見せつけられたという感じで、やはりこの方の作るものに確実にある個性と自我がたまらなく大好きだとこっちも再認識した。
ホソクさんがいつも腹の中に抱えている欲望が大好きだし、それを自分自身でコントロールする理性も大好きなので、私個人にとっても本当に素晴らしい一曲になった。

ホソクさん、歌詞の中で過去の自分の選択や今後も進みますという決意を書くことが多いけど、同時に何度も「学びをやめない」「他から吸収して自分の色にする」話もしている。
ホソクさんの過去への自負と周囲への愛と感謝、そしてこれからの自分への自信って本当に素晴らしくないですか?
しっかりやっていることを「しっかりやっています」と言い切れるのは果敢だし勇敢だし、実際に次になにかを表に出すときには確実に進化して成長しているのがあまりにも地に足がついている…
フィクションや誰の考え方をよく取り入れて、それを自分のストーリーに落とし込んで自分色に作り上げることが上手な人だな。本当に。

 

歌詞

出だしと結びの「水を得た魚」、ビートを波に例えているし音楽活動をする自分自身(ホソクさん)の姿のメタファーなのはわかるけど、ナムジュンのポッドキャストの「チームメンバーであるがゆえにパーソナリティを犠牲にする必要はない」という言葉の後だと、「ソロ活動の場を与えられたホソクさん」とも取れるので、彼のことをもっと個人としても活躍してスポットライトを浴びて称賛を受けるべき人だとずっと思ってきたファンとしては幸せな限りだし、BTSの個人活動開始という視点から見ても、初っ端にこれを言われるとそうだよ君達はもっと早くから個々人としても注目されるべきだったんだよ…と感涙。
ホソクさんがトップバッターで幸せです。

 

歌詞途中の「Kitkat」について、この単語が日本語で「きっと勝つ」と聞こえることを使って、ホソクさんがこの曲や今後のソロ活動でも「きっと勝つ」のだと決意表明しているのではないか?という英語圏のアミの解釈を見て、言葉遊びが上手なあのホソクさんなら十分あり得る意味の含ませ方なので良い考察と思った。

歌詞でよくわからんなと思っているのが「踊る赤子」と「相互関係」なんだけれども。
「踊る赤子」はラップの作り方の関係もありそうだけど、自分自身のことかな。
「相互関係」はどことどこのことを言っているんだろう。
この文脈ではBTSのメンバーとかファンとのことではないよな?自分の中の自分達のこと?と最初は思っていたんだけど、曲を何度も聞いているうちにファンと自分の関係のことを言っているのかもしれないと思えてきた。
直後に「Run BTS」にも繋がるガソリンの話もしているし。アキレス腱だし。

 

最初の「Yeah, I'm thirsty」といいエッジボイスといい、今回もまたギリギリなセクシーを攻めているが!
やっぱりバンタンの中から誰かしらがセクシャリティに触れる作品を出すとしたら、先駆けはホソクさんなのではないかと期待をしてしまう。待っています。

 

MVで、レントゲン映像の状態でファンや賞を求めながらも「冨、名声、それが全てじゃない。それはもうわかってる。この仕事のおかげで息ができるからこそもっと欲しいんだ」と歌っているのは、様々な自分自身の姿を認めて受け入れて「ミニミニマニモ」と自由にそこを行き来しながらも、本質はひとつで変わらないことを言っているのかもしれない。
最近もよく過去を思い出すとか初心にかえると話していたし、そもそもこの頭蓋骨状態の映像のシーンが不自然に長すぎるので、ここの歌詞はどうしてもこの映像を当てたかったかのように受け取れるのね(しかしダリに触れたところでこの映像に切り替わるの、確信犯でしょうね)

 

映像

ホソクさんの映像作品にはたびたびベッドが出てくる。
今回もきた!と思ったら「EGO」を意識しているような病院の構図で、そこからの頭蓋骨≒ホソクさんの中身、だった。
ダリの「dancer - skull」を意識しているとしたらやっぱり「ダンスは僕の財産」で、根本にあるものなんだなと。決してこれは抜かせないのだな。

 

今回のフィクションオマージュがデヴィッド・フィンチャーファイトクラブ』『セブン』やダリだとすると、確かに今までとは系統の違うものを持ってきている感じがする。

サイコスリラー寄りの、例えば「Daydream」や「EGO」のMVなどで鱗片を見せていたエキゾチックでトリッキーなイメージ(私はこれをよく「アングラ感」などと総称してしまうが)
私はホソクさんのこういうアングラ感、薄ら怖さ、(この言い方をして誤解を招いたら嫌だけど)芯まで透き通っているわけではない血生臭さや攻撃性、ポップかつ恐ろしいところ、が大好きなので今回は舞い上がっている。

 

自分を外から見ている自分、は、自分自身や自分を取り巻く環境を俯瞰して見ることに長けているホソクさんの姿で、まさにという感じで上がった。

箱の中をホソクさんの中、ホソクさんの意識(≒自我)の中とすると、部屋は分人、鍵を持っているのはホソクさんだけでホソクさんだけが部屋を行き来できる(冒頭の男性は誰やねんというのは疑問のままだが…)。
「ミニミニマニモ」で箱が映るのは、「どの部屋に行こうか」「どの自分を選ぼうか」みたいな意味合いなのかも。

 

ところで「分人」とは。

>分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。恋人との分人、両親との分人、職場での分人、趣味の仲間との分人、……それらは、必ずしも同じではない。
>分人は、相手との反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されてゆく、パターンとしての人格である。必ずしも直接会う人だけでなく、ネットでのみ交流する人も含まれるし、小説や音楽といった芸術、自然の風景など、人間以外の対象や環境も分人化を促す要因となり得る。
>対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。

 私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)   平野 啓一郎

https://www.amazon.co.jp/dp/4062881721/ref=cm_sw_r_tw_dp_VVKX6FDWYRSZCQ92427B

 

>人間が複数のことに分化してそれぞれに多重帰属していて、社会の一部に巻き込まれている自分を、常に相対化して批判的に見ることができるということが重要(略)いくつもの自分を生きている中で、どれを本当の自分、どれを本当じゃない自分というふうに序列化せずに全部本当だということを肯定していく

 平野啓一郎 ハイデガーフォーラム発表の「『存在と時間』と分人主義 」

http://heideggerforum.main.jp/data2022/Hirano.pdf

 ※ この「分人」の考え方は、今後も頻出します。いま私の中でホットなワードなので…

 

先行シングルにばかり夢中になってしまっていたが、アルバムにはストーリー性があると話していたし、アルバム内の他の曲では他の部屋(≒他の分人)も見せていただけるということなのだろうか?
「MORE」はこれまでの復習に進化を加えたぜって感じだったけど、そう考えるとやっぱりアルバムには覚悟がいる、、

 

コンセプトフォト2が出たときに、なんで「だる」みたいな態度で床に寝そべってるのに誰も気にしてないんだと思ってたけど、警察か刑務所かと言われていたオフィス的な部屋で他人がホソクさんをあまり気にしていないのは、クリストファー・ノーランインセプション』の夢の中的な定義だからなのでは。
ホソクさんは周囲で人の形をして動いている自分の意識に干渉できるけど、周囲は自意識が具現化しただけの物体に過ぎない。
だから男性に足ひっかけて倒すこともできるし、称賛の的になることもできる(全ての部屋がホソクさんの王国なので)が、おそらく周囲がホソクさんを傷付けてくることはない。

だから、バンドの構図でシャウトしてる部屋で楽器を演奏している人達が火傷を負ったような顔をしていて、隅にガソリンがあり天井や壁がベトベト汚れているのは、きっとそういうことだろうと…
ここにも少し『ファイト・クラブ』が匂います。

 

MVの最後に自分で箱を閉めているのは「理性」か。
つまり彼は自我をコントロールしながら溢れる欲望をやめないということか。
ただそれは今までもそうだったから、やっぱり再認識感がありますね。

 

(追記)
最初、このMVでのホソクさんは二人(白いほうと黒いほう)と解釈していたんだけど、四人という解釈もあるなと思えてきた。
①バンドの部屋にいる白い服のホソクさん
②冒頭で箱を受け取り最後にしめる黒い服のホソクさん
③冒頭の部屋に突然いたり病室で寝ていたりする、黒いピエロのホソクさん(仮にこれをジャックと呼ぶ)
④レントゲン映像で歌う骸骨のホソクさん

 

①なんだけど、MVでは白が一人かなと思っていたが追って公開されたフォトスケッチで白いピエロのホソクさんもいたので、今後出てくるのか黒ピエロのように神出鬼没なのかそもそも白と白ピエロは同一人物なのか、まだはっきりしないところ。
いずれにしてもMVでバンドの部屋で白い服を着てシャウトしているホソクさんは、多分ある意味ジャックなんだけど…箱から出てきた(出てくる)部分の、「これまで見せたことのない姿」なんだと思う。
ホソクさん自身はしていないピアスをしていたりするのも意味を感じる。
最後に黒いホソクさんに蓋を閉じられるこのホソクさん。

 

②は、やっぱりどうしてもこの人が主軸の自我に見えるけども…
箱に触れているのはこのホソクさんのみなので、理性や制御の姿でもある。

オフィスのシーンをよく見てみると、綺麗でコーヒーもあるホソクさんにとって快適そうな部屋から出てきた彼が、オフィスに出ると「あっ、やべ」みたいな表情をする。
で、ちょっと気まずそうに歩き出すんだけど段々堂々としてきて、最終的には社員の書類を投げて上司の足を引っかけて賞賛を得るという。
この一連のシーンを「ハイブやアイドル像の抑圧からの脱出」と捉えている方がいて、なるほどと思った。

j hope 'MORE' Official MV 통역사의 200% 완벽 분석

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ずっとやりたいと思っていたグループ内ではできないこと、できない表現、できない音楽を、ここで発揮するのだと。

仮に書類を投げられる社員が、事務所の社員や、音楽業界での関係者、韓国政府など、ホソクさんの自我を抑え付けていた(ホソクさんが自我を抑えつける決断をせざるを得ない環境にしていた)人々や権力とすると、彼に感情がなさそうに見えることも重要かもしれない。
意思のありかがわからないような力にも従わねばならない環境。
でもホソクさんはそんな彼に威嚇するように近付いて、彼の仕事(=書類)を放り投げる。

転ばせられる上司を、それらの上層部とすると、ホソクさんがそこに刃向かって痛い目に遭わせたことで周囲から拍手を送られている構図が、まるで権力に屈服せず戦ったことを肯定されているようで。
この周囲の社員達は私達ファン、消費者の姿でもあるのかもしれない。

またはハイブ自身の投影か。
この、世界的に大成功中の今のタイミングでメンバーにソロ活動を「許した」事務所の判断は、この拍手の姿勢に現れているのかもしれない。

 

③は、私は仮で彼のことをジャックと呼んでいるのだけど、ジャックはすでに死んでいる自我なのか、死にそうな自我なのか、病室のシーンで看護師のような方にとられている心電図では心臓は動いていない。
唐突に現れることからも、ジャックには実体がないのかもと思ったりする。

MVメイキングを見ると、MVの前半でジャックが突然立っていたこの場所には②のホソクさんの影があるということがわかる

 

箱の中=ホソクさんの内面でも実体がない、幽霊のような存在ということは、彼は存在することを許されていないのか、あるいは存在したくないとジャック(=ホソクさん)が思っているのか…

そこから、④のホソクさんのシーンに移る。

 

④はおそらく本質。黒でも白でも何色でもない自我の最も深いところなのではないかと思う。
だから前述もしたけれど、④に言わせている歌詞は本心で、最も誤解されたくないところとも読める。
また、ホソクさん自身にとっても最も忘れたくないところなのかも。

 

ところで、バンドのいる部屋に、「HELP ME DISCOVER MY INNER PIECE」と手書きのような文字で書いてあるのがフォトスケッチでわかった。

ホソクさんの何かに「PIECE」と見ると、「P.O.P (Piece of Peace), Pt.1」を思い出す。

人間には多様な面、顔、姿、感情、意思があって、それらはどんなに矛盾するものでも相反するものでも、一人の人間の中で共存しうる。
権力からの抑圧に抗いたいホソクさんもいれば、「もっとだ」と叫んで渇望する野心のホソクさんもいる、何かに喰われそうになっているのか幽霊のようなホソクさんもいれば、かつて作業室で「小さな平和のかけらが集まったらどうなるでしょうか」と両手を広げて微笑んでいたホソクさんも”まだ”いる。
箱の中に共存するどの部屋もどのホソクさんも、日々変わるし日々変わらないかもしれない。
そんな人間の複雑で多様な部分を忘れてまるでキャラクターのように彼を消費するファンにはなりたくないと、改めて強く思った。

特にホソクさんは、バンタンの中で「僕はあなたの希望」と自ら進んで自分を単純化、キャラクター付けしていた部分があるので、アミも”それだけで”受け取りがちな人が多い印象だった。
ホソクさんの中での葛藤はきっとずっとかなり大きかったのではないかと思う。
昔、冗談っぽく「HOPEの名や明るいキャラクターが負担に感じるときもある」と言っていたけれど、私でも自分の多様性を我慢してひとつのカテゴリに押し込むなんて耐えられないのに、ホソクさんは表現者として優秀で自我も欲も強い人だと思うので、そんな彼の内面の壮絶さなんて想像つかないです。

「HELP ME」は、もしかしたら③や④の声なのかもしれないですね。
その下にはプリントされた字で「You can do it. We can help.」。
私はこの「We」でいたいです。

 

「これらは全部ひとり」という解釈もできるし、まあ一人のホソクさんの話であることは間違いないんだけど、出てくる部屋や人物をじっくり見ていくのは非常におもしろいです。

 

ファイト・クラブ

「MORE」のMVには、デヴィッド・フィンチャーファイト・クラブ』のオマージュらしきところがいくつもあった。

今までここで書いてきた「部屋≒分人、様々なホソクさんの自我」とすると、じゃあどうして部屋の数だけホソクさんがいるわけではないのか?なぜMVには黒いホソクさんと白いホソクさんしかいないのか?という疑問が沸いてくるわけですが。
ファイト・クラブ』を見返したら(私の中で)腑に落ちた。
「僕」とタイラーなわけか…と。

序盤の「Keep my passion, I gotta go」で急にいるピエロに扮した黒いホソクさんも、なんで急にいるんだ(しかも黒と黒だ)と思ってたけど、全部ホソクさんなんだからいつでも急に現れて急に消えてもおかしくない。
急に現れるタイラーを見て考えついたことだけれど。

 

おもいしろいのは、映画『ファイト・クラブ』だと「僕」の二重人格を知っているマーラが寝ていた扉の先には、「MORE」のMVだと看病されている黒いホソクさんがいる。そこからレントゲン映像にいくわけだけど。
ホソクさんはよくどんな自分も受け入れる、受け入れて楽しむ的なことを話すけれど、そこに通ずるものを感じる。
自分のどんな自我も受け入れて自分の本質を信じるホソクさんにとっては、ラストシーンで一緒に爆発を見守ってくれる相手は自分がいいということなのかもしれない(本当に最高にかっこいい人なんですけど…)

 

(めちゃくちゃ余談ですけど、ホソクさん、インザソムでも「今日も僕を信じる!」と喋っていて泣きそうになった。そういうところが大好きで大尊敬している)

 

ファイトクラブの目的は「自分に苦痛を与えて生を実感する」。

これはBTS「ON」にも共通するテーマだけど、「MORE」でホソクさんが歌う「Bring it all」の精神にも通ずるものがある(「MORE」、ずっと主張が「ON(♪Bring the pain)」っぽいと思ってたけどこういう類似点だったのか)

「Jack In The Box」における攻撃性はホソクさんの自分自身への加害、という認識は今のところあながち間違いではなさそう。

 

消費社会を批判するタイラーの精神と、消費社会をむしろ生み出す側にいるホソクさん。
「人は職業で決まるものではない」と言うタイラーと、「仕事(≒音楽)に生かされている」と歌うホソクさん。
「俺達はテレビを見て、いつかは億万長者、スターになれると信じてきた。だがそんなものは嘘だ」と言うタイラーと、スターになり富も名声も手に入れたホソクさん。

…このアンビバレンツ。これこそがホソクさんの中のホソクさん、ホソクさんとホソクさん、ではないか。

つまり、資本主義社会、消費社会の大きな流れの中で成功者として存在している自分を自覚しながらも、そんな自分を冷静に見て分析している自分もいる。

 

それと、映画の中で結構唐突に「人間の臓器が一人称で語ってる。”僕はジャックの脳の延髄です。心臓。血圧、呼吸をつかさどっています”。」という台詞が出てくる。
その後も「僕」の語り手でジャックの名前が何度か出てくるのだけど。ジャックインザボックス。

ちなみにタイラー率いる集団を抑止する動きとして「HOPE」という名前も出てくる。
「Helping Others with Prevention and Enforcement(犯罪の防止と摘発の会)」。
ニコちゃんマークも出てきます。さすがに鳥肌ものです(オマージュ大好きオタク)

 

と、ダーッととりとめもなく殴り書きしてしまったが今日の所感ということで、メモしたくて書きました。
なにはともあれホソクさんは最高です。一生推します。
ジェイホープさんの今後に幸あれ